京都即宗院の樹木葬
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紅葉の即宗院庭園
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即宗院のみどころ
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即宗院は、結界とも云える東福寺三名橋「偃(えん)月橋」を渡るところから始まる。京都駅から車で12分の場所にありながら4千坪にもおよぶ広大な境内地を持ち、鬱蒼とした深山と佳麗な庭の風情は来る人に感動を与える。
幕末維新の舞台ともなった即宗院。篤姫が江戸輿入れの際立ち寄ったといわれ、薩摩藩士・西郷隆盛が清水寺の僧・月照と能で有名な自然居士縁の草庵・採薪亭で、倒幕計画を密かに練った地でもあります。裏山には西郷隆盛銘文の顕彰碑もあります。
自称、庭師の杉井住職の丹精による寺内の庭園は、それは見事で、中でも平安時代後期 の遺構が残る本堂前の庭は、寝殿造りに合わせ、鈎の手(「心」)になった池の地割り・瀧の位置など、その往時が偲ばれる。『法然上人絵伝』巻八段五(国宝・知恩院蔵)にも描かれ、法然上人が藤原兼実に法話を行った真正なる史跡であり、法然上人に頭光が現われた聖地でもあります。

住職曰く、即宗院の美しい自然の堪能は、春夏秋冬、朝夕、晴れ、曇り、雨、雪の日に身を置き、眺めてこそ解ると言うが、このお寺は非公開寺でもある。

 

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【月輪殿】
 平安時代後期、関白藤原忠道(近衛家)はこの地に御所の東御堂を建立した。 忠道の子、公家九條家の始祖である兼実は、建久7年(1196)に関白を辞して後、自身が別称『月輪殿』と呼ばれてたことにちなみ、山荘『月輪殿』とした。即宗院庭園は、その跡地である。
  太平洋戦争後荒廃したが、玄之和尚が復興に心血を注ぎ、昭和52年に庭園文化研究所森薀博士(元東大教授)等の指導で往時の面影が復元され、京都市史跡に指定された。
  室町時代後期の庭園としては類い稀な公家寝殿造形で、鉤の手(「心」)になった池の地割り・龍の位置など、その往時が偲ばれる。
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薩摩藩士東征戦亡碑
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西郷隆盛直筆
【西郷南州隆盛公】
 明治維新の際、西郷隆盛公と月照上人(京都清水寺の勤皇僧)が即宗院境内奥地の茶亭「採薪亭(さいしんてい)」に隠れ、幕軍の難を逃れつつ幕府転覆の策を謀り、ここより密令を発して諸藩と連携のもとに維新の大業を完遂した。 採薪亭は存在しないが、寛政8年(1796)当院第十三世龍河和尚が、ここを閉居の庵とした自然居士(1200年代・観阿弥作能らくのモデル)を偲び一字の草庵を建てたことに始まる。建物は方三間、二階建、最上には「雲居」の額を掲げ、階下を「採薪亭」と名付け、もっぱら茶屋として使用された。狸狐が闊歩する東山三十六峰のひとつ「慧日山(えにちざん)」の裾野にあり、新撰組や幕府の追っ手を逃れ諜議するには格好の隠れ処であった。
  隆盛公は、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦に際しては、当地に薩摩軍の屯営を構え、即宗院の裏山山頂に砲列を敷き、淀より進む幕軍に向かって砲撃をくわえ、勝利を手中にした。倒幕後、隆盛公は明治維新で戦死した霊を供養するため斎戒沐浴し、524霊の揮毫をおこない、明治2年に「東征戦亡の碑」を建立した。明治維新の歴史に登場する「生麦事件」の奈良原喜左衛門、幕末の「人切り新兵衛」こと田中新兵衛の墓碑が存在する。
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